カテゴリ:3 各学年の様子
須永伝蔵

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本日、本校の学校評議員である勝俣正次様が、ゲストティーチャーとして4年生に地元の偉人である須永伝蔵氏のお話を聞かせてくださいました。勝俣様はそのご子孫にあたるそうです。
以下、勝俣様作成の「箱根仙石原と耕牧舎 ~須永伝蔵の生涯~」から抜粋です。

箱根仙石原には明治時代、耕牧舎という大きな牧場がありました。
耕牧舎は実業家として名高い渋沢栄一達が中心となり、箱根仙石原の広大な原野に牧羊場を作ることに決めたのがそもそものはじまりです。
明治十三年、仙石原で耕牧舎が開業され、その支配人に渋沢家親戚の須永伝蔵という人が命ぜられ、現在の群馬県からやってきました。
その社屋は、長尾峠の麓あたりに建てられたそうです。仙石原の村人達にとって耕牧舎で働いて得る現金収入は、貴重な収入源になったことと想像できます。
また、学校教育の面においても須永伝蔵は、仙石学校資本金に寄付をしたり、仙石小学校基本財産に土地を寄付したりと、仙石原の学校教育や地域の発展のために尽くしたことが、箱根町教育史という本に記載されています。
さて、耕牧舎の支配人となった須永伝蔵は、仙石原の厳しい気候風土が災いして羊のエサとなる牧草がうまく育たないために、当初計画の羊毛生産は断念し、牛を飼ってミルクやバターなどの乳製品の製造販売や、牛や馬の育成販売に力を注ぐことに転換したのでした。
仙石原の耕牧舎は、最盛期には牛二百頭、馬百頭以上を飼うまでにもなるのでした。残念ながら耕牧舎は年間を通じてはあまり経営は振るわず、須永伝蔵の死後、仙石原耕牧舎では事業を引き継ぐのに適した人がいなかったために牧畜業は廃止されました。
現在、耕牧舎の面影を残す物として、仙石原・湖尻自然探勝歩道の中ほどに須永伝蔵の功績を称える「須永君碑」という石碑が残っています。
耕牧舎は、明治四十一年には牧場跡地の半分の三百五十ヘクタールを仙石原村へ寄付し、昭和三年になってからは残りの土地を仙石原地所が引き継ぎ、現在は箱根温泉供給株式会社が管理して温泉付き別荘の販売やゴルフ場などに利用されています。
仙石原のリゾート地としての目覚しい発展の歴史を考えると、もしも、須永伝蔵達が仙石原にやって来なかったとすれば、仙石原はもとより箱根町の現在のような日本を代表する観光地としての輝かしい発展を見ることはできなかったかも知れません。
【参考文献】雨夜譚・青淵回顧録 (渋沢栄一)、青淵 (渋沢栄一記念財団)、仙石原村鑑 (箱根町立郷土資料館 蔵)、芦ノ湖分水史考 (稲村得寿 著)、箱根用水史 (佐藤隆 著)、冤罪逆川事件 (勝俣正次 著)、芥川龍之介の父 (森啓祐 著)、おじいさん、おばあさんたちの学校 (箱根町立郷土資料館)、箱根町教育史 (箱根町教育委員会)
【取材協力】須永栄一、箱根温泉供給株式会社、箱根町教育委員会

公開日:2024年01月31日 13:00:00